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一つに決められることが答えではない [ノート]

絵を描き始めた頃から、私は完成形を決めて描かない。
大体のビジョンは持ちつつも、臨機応変に、偶発性を活かし、自分の頭の中でできているもの以上の何か、、、生き物が持つ生命力が画面から表れるようなものを目指して作業をする。
作品は「私から生み出された、私でないもの」「別の命が吹き込まれたもの」であって欲しいと願っている。
蛹から蝶が羽化するように、作品には私から飛び立って欲しいと願っている。

前回のノートに出てきた「作品とは?」という問には、今のところそのような答えしか出しようがない。




自分が求めているものは、計算すれば、順序を踏んでいけば出来上がるものではない。
一筆一筆全てが違うものなのだ。同じ色の絵具や、同じ形状の筆を使っても、一つとして同じ線は引けず、点を打つこともできない。基本的にはそう思っている。
大切なのは、それらの作業をまとめること。
音楽が一音一音の連なりによって全体が出来上がるように、絵画も一つ一つの作業の積み重ねによって全体が出来上がる。

誤解を生むかもしれないが、その作業の中で「考えないこと」は大切なことだと感じている。
もっと正しく言えば「(良い感覚を)考える隙間もないほど体に染み込ませること」が必要だと感じている。
一つ一つの作業の次には無限の選択肢があるのだ。いちいち一つ一つ考えて迷っていたらきりがない。
だから、迷わない為に、考えない為に、体(脳?)に染み込ませるのです、適切なパターンを。
それは訓練によって養われる。

作品を作る為にはこの訓練が必要不可欠。
日々の生活の中で、ドローイングで、タブローで、鍛えて身につけるしかない。

でもこの訓練はあくまでも作品を作り上げるのに必要な技術の一つを、身につけるためにあるだけのもの。
重要だけどそれが全てではない。
反射的動きだけで作品ができるわけではないということだ。

もう一大切なことに「作品をどこに持っていきたいのか」という目標、コンセプトがある。
これは私のような作業方法においてはしっかり決めていないと、非常にまずい。いつまでたってもおわらない、作品が仕上がらない状況になる。

作品を作り上げるためには、反射的動きだけでも、考えだけでも、どちらか一つではダメなのだ。
どちらも必要なのだ。
そしてこれらを二つを混同してはならない。どちらからが正であるとか、どちらかが不要であるとか考えてはならない。

今日と昨日、作業をしながら改めて思ったのは以上のこと。



自分の研究に従い、その次に挑戦することは苦しみを伴う。今まで経験したことのないものに躓き、迷うことも多いからだ。すっきりしない感覚も多く味わうことになる。
それに比べて反射的にできる作業、手癖で出来上がる作業は、今までの範囲の中で出来上がるものなので、すらすら動くことができ、気持ちいい。
この記事を書いた三日前は、どうやら反射的にできる作業の楽しさに引き込まれしまったということのようだ。
その時にできた作品を今日もじっと眺めていたが、何か虚しさを感じた。
ストレートな表現で、自分以外の人が作ったものなら好印象な作品なのだが、そう感じるものはもう私の作品ではない。
位置づけとしては、実験やドローイング、習作である。

三日前、いつになく私は気持ち良く作業ができ、びっくりして考えた。
これこそが制作に必要なことなのではないかと。
考えた結果、その感覚は大切なものだったけど、それだけが必要なものではないことが改めて解った。

勉強になった。

最後は小さい子の反省文のような締めになったが、もう夜中の3時前だ。
書き留めのノートとして、これで終わりたいと思う。


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